生あるものには終わりがあります


それは予告なく順番もなく、ランダムにやってきます


本人には予告があるのでしょうか?


あっても気がつかないのでしょうか?


また、あったとしても理解できないのでしょうか?



こればかりは、こちらの想像になってしまいます



亡くなった本人は、こちらの世界から離れるわけで


声を出しても声としてこちらの世界には届かず


いくら触ってもこちらの世界の者には感じず


何んと、もどかしい事でしょう


亡くなった本人は、この現象に慣れそして


諦めなくてはならないのです


浄土真宗では、人間の魂をあらわす言葉には


「魂」 と 「魄」 という二つの字があるそうです
(こん)  (はく)

「魂」は人間の生存を司る精神的なものをあらわし


「魄」は人間の生存を司る肉体的なものをあらわすそうです



亡くなった方が土にかえりましたと表現をすることが


ありますがそれは「魄」のたましいみたいです


そのたましいを祀るのが「お墓」


精神的なたましいを祀るところが、仏壇やお寺みたいです


お墓では、亡くなった方の思い出を尋ねるところで


お墓参りをする人が主になりますが


それに対して仏壇や、お寺では、亡くなった方からの


限りない呼びかけに遭うところらしいです


亡くなった方の願いを聞くところ、聞かされるところ


みたいです。お坊さんのお経が必要なのは


実は生き残っている側の者のためみたいです



この話を知って妙に納得してしまいました



宗教によって、色々表現の仕方が違うのでしょうが



いずれにせよ、今生きている者たちが、この「魂」「魄」を



祀り供養していく事にはかわりないでしょう



こんなことを考えるようになったのは



つい半月ほど前に、義妹が旅立ったからです


義妹とはいろいろな行き違いがあり、気がついたら約8年間も


音信不通でした。


癌と宣告されて1年半、入退院を繰り返しながらも働いていたそうです


しかし今回入院して2週間で逝ってしまいました


誰にも知らせないでと言う本人の意思があったと聞きました


連絡を受け比較的近くに住んでいた私の娘が飛んでいきました。



会って話も出来たようですが、何故わかったのかと



会いに来た事に驚いていた様子だったそうです


その話をきいて、私達には、最後まで会いたくなかったのだろうかと


考えてしまいました



そんなこんなで、親の死よりも、複雑で悲しくて辛くて


彼女にかける言葉がみつかりませんでした



私は今彼女と、改めて出会い直す事を始めないといけないと



深く深く感じています